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初代会長 鶴岡一人氏の横顔

エピソード1 プロ野球監督から日本少年野球連盟の理事長に就任

鶴岡さんが日本少年野球連盟の理事長に就任したのは1971年 (昭和46年) だった。
1年前の1970年にスタートした日本少年野球連盟の初代吉倉利夫理事長がその年の10月に急逝、次期理事長として白羽の
矢が立ったのが鶴岡さんだった。
南海ホークスの監督を勇退したあと、阪神や近鉄のオーナーから「ぜひうちの監督に」と懇請される中、NHKの解説者として活躍していた鶴岡さんだけに、即答は得られなかったものの、その後「私が野球の楽しさを知ったのは、生まれ故郷呉 (広島県) での
少年野球でした。
長年お世話になった野球界への恩返しだと思って引き受けましょう」と快諾。
1971年10月29日の臨時総会で、晴れて”鶴岡理事長”が正式に誕生した。 南海ホークス時代、見事な采配を振るった鶴岡理事長は、日本少年野球連盟のトップとしてもその手腕を発揮。真っ先に将来を見据えた組織固めに力を注ぎ始めた。
毎年のように本部役員の強化を図り、常任理事の増員、事務局長の新設など次々と新しい手を打っていった。
「引き受けたからには、どこにも負けない素晴らしい団体にしたい」という情熱からだった。
鶴岡理事長の人気、そして将来を見据えた大胆かつ新しい組織作り。 そんな魅力から加盟チーム数は急激に増えていった。
創設時にはわずか28チームだったのが、創立10周年を迎えた1979年にはなんと300チーム。
日本少年野球連盟は着実に日本一の組織へと成長していった。
増え続けるチーム数、激増する選手数。 それにつれて鶴岡理事長の少年たちに注ぐ愛情も深く、大きくなっていった。
そのなによりのあかしは常に少年たちの健康管理に細かい神経を配り、故障につながることや危険が伴うものを次々に排除していったことだろう。 裏に金具のついたスパイクの使用禁止。開催日の重なる大会への二重登録は認めないなど。
これはすべて少年たちが健康を損なわず、大きく、たくましく伸びてほしいという熱い気持ちからだった。
1980年代に入っても”改善”は続いた。幼少時の変化球多投はひじに悪影響を与える、との理由から「小学生の変化球投法の
厳禁」を打ち出した。
そして早朝と日没後の練習禁止。1987年になって中学生の連投にストップをかけたのも鶴岡理事長の判断からだった。

エピソード2 組織の強化と選手への愛情そして国際交流にも力を

 

勲四等旭日授賞に輝いた鶴岡会長を囲んで

第36回春季大会開会式で挨拶する渡辺会長

 

組織の強化と選手への深い愛情。 それと並行して鶴岡理事長が力をいれたのが「国際交流」だった。
自らも1931年選抜大会優勝(広島商)の褒美としてアメリカ遠征した経験があるだけに「これからの子供たちには国際感覚を
身につけさせることが絶対必要」といい、世界へ目を向けさせることを強調した。
1973年に初めてアメリカへの遠征を実現させ、その後、国交が正常化する前の中国へ乗り込んで、歴史的ともいえる交流試合
を成功させている。
そして1982年から始まった世界大会。 日本だけでなく、世界へも目を向けたその眼力はさすがと思わせるものがあった。
それともうひとつ、ボーイズリーグが将来、さらに大きく発展するために、どうしても実現させておきたいことがあった。
それが財団法人化の問題だった。
組織の強化と役割分担を徹底させるため、1989年に連盟始まって以来の大改革が行われたが、それも財団法人化実現への
布石といえた。
この改革により、これまでの理事長、常任理事制を廃止。 理事会と評議員会の上に会長を置く、いわゆる現在の組織が
出来上がった。
会長には鶴岡理事長、副会長には鎌谷實氏、専務理事には八尾謙三、原田常治の両氏が就任しての新しい出発。
財団法人化への努力は数年前から始まっていたとはいえ、この組織強化には鶴岡会長のはかりしれないほどの熱意が込められていた。
そしてこの直後に南海ホークス時代から親交のあった三和銀行の渡辺滉頭取 (現三菱東京UFJ銀行名誉顧問) に初代名誉会長
の就任を要請したが、これもより強い組織にという願い以外のなにものでもなかった。
1991年になってうれしい出来事が待っていた。
それは、鶴岡会長がその年の1月、文部大臣からのスポーツ功労賞の表彰に続き、11月に勲四等旭日小綬賞に輝いたのだ。
南海ホークスの監督として2度の日本シリーズ制覇、そしてパ・リーグの9度の優勝などが認められての受賞だったが、20年に
わたってボーイズリーグを素晴らしい組織に育て上げたその功績も十分に評価されたといっていい。

エピソード3 鶴岡さんが選んだ次代のリーダー それは渡辺 滉 現会長

1997年の評議員会で鶴岡会長は会長職を勇退。名誉会長となった。
80歳という高齢を考えての人事で、この時点で渡辺名誉会長が最高顧問に、鎌谷副会長が会長代行に就任した。
しかし、名誉会長になっても頑張り続け、一時、体調を崩したものの、1999年8月、南海サウスタワーホテル大阪 (現スイスホテル南海大阪) で開かれた連盟創立30周年式典には元気に出席。
壇上から挨拶するとともに南海ホークス時代の仲間と大いに話がはずんでいた。
そしてその直後に大阪ドームで開催された世界少年野球大会の開会式では多くの来賓、本部役員、支部関係者を従ええるようにして世界の子供たちに笑顔で歓迎の挨拶。その堂々とした姿はまだまだ貫禄十分で、スタンドからも大きな拍手がわき起こった。
しかし、名誉会長として公式の場に姿を見せたのはこれが最後となってしまった。
「もし私に万が一のことがあれば渡辺最高顧問に相談するように。 いいな・・・。」
2000年1月29日、病院を訪れた原田専務理事との1時間にわたる話し合いで、心の中を熱っぽく打ち明けた鶴岡さん。
その言葉は、自分のあとは渡辺さんに・・・と言う「会長の後任指名」以外のなにものでもなかった。
「鶴岡さんの遺言をなんとしても実現させなければ・・・。」 (原田専務理事) 。
通夜、葬儀・告別式が終わると、その「遺言」通り、連盟首脳は「渡辺滉会長の誕生」へ向かって素早く動きだした。
鎌谷会長代行、原田専務理事が大阪・淀屋橋の三和銀行へ渡辺最高顧問 (当時三和銀行相談役) を訪ね、鶴岡さんの気持ちを伝えるとともに、会長就任を強く要請した。もちろん即決とわ行かず半月程過ぎたが、渡辺最高顧問から秘書を通じて「4月12日に会いたい」との連絡。その場で「会長を引き受けさせていただきます」という承諾を得たのだった。
1989年に南海ホークス時代から親交のあった渡辺さん (当時三和銀行頭取) に初代名誉会長を要請し、日本少年野球連盟首脳の一角に据えた鶴岡さん。
そのときから「この人を自分の後継者に」との強い思いが心の底にあったのだろう。
常に将来を見据え、見事なリーダーシップによって組織の強化と拡大に取り組んできた鶴岡さんではあったが、10年前から密かに自らの後継者を選んでいたとは・・・。
その熱い思いは「遺言」という形で、しっかりと次代へバトンタッチされたのだった。

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